「膝枕」  「で?」 と、藤次郎が一言言うと、玉珠は話を止めた。  話に夢中になっていて気づかなかったが、改めて藤次郎を見ると、左肘をテーブ ルに突き、左手は顔の半分を覆い、左目を隠していた。その目線は、玉珠を見てい たが、その顔は玉珠からそむけて窓辺の国道の方を向いていた。  「どした?」  「いや…」  明らかに、「話に厭きた」と言う態度の藤次郎に対し、玉珠はうつむいて目線だ けは藤次郎に向けていた。  …暫く沈黙が続いた…  元々、このドライブ自体が藤次郎は気が進まなかった。  最近、ようやく自動車免許を取得した玉珠にせがまれて、郊外に出るまでは自分 が運転していくと言う条件で、車検から帰ってきたばかりの車でドライブに出かけ たが、郊外に出る前に渋滞に遭い、休息をとるために、国道沿線のファミリーレス トランに入った。  藤次郎のアドバイスもあり、教習所での教習時間もそんなに超過せずに卒業でき たので、有頂天になって一方的に教習所での話を車内でもここでも何度も繰り返し て話す玉珠に、藤次郎はいささか怒りを覚えてきていた。  その体勢のまま、窓から見える国道の車の流れを見ていた藤次郎は、ふと  「行くか」 と言って、伝票を取り立ち上った。そんな藤次郎に玉珠は慌ててついていく。  支払いを終えて車に向かう途中で、藤次郎は振り向きざま、  「ほれ、この渋滞なら大丈夫だから、運転してみな」 と言って、藤次郎は車のキーを玉珠に投げ渡した。  咄嗟の事で、一瞬、藤次郎が言った言葉の意味を理解できなかったが、飛んでき た車のキーを受け取ると、玉珠は嬉々として藤次郎の車の運転席にまわった。  慌てて、シート位置やルームミラーの調整を行う玉珠に対して、  「落ち着け…落ち着け…車は逃げんよ」 といいながら、車の前後にマグネット式の若葉マークを張り付けた藤次郎は助手席 に乗り込んだ。  ようやく準備を整えた玉珠は、恐る恐るエンジンをかけて、これも恐る恐る車を 発進させた。  なんとか、国道の流れに入れて貰うと、  「いいか…こういう渋滞では、アクセルを踏むよりも、AT車のクリープ現象を 利用すると楽なんだ」  「はっ、はい」  「肩の力を抜けって…」 と藤次郎は静かに言った。  緊張して身をこわばらせて運転する玉珠に対して、藤次郎は指示以外はなるべく 話しかけないようにし、またカーラジオのスイッチも切っていた。藤次郎もまた、 玉珠の運転技術が信用できなくて、緊張していた…  その後、なんとか渋滞を抜けた玉珠は、藤次郎の指示通りに走り、郊外の湖を一 周する周遊道を走った。玉珠の運転技術に藤次郎は次第に安心していったが、話し かけて玉珠を混乱させないように、その場では黙っていた。  湖畔のパーキングエリアで、レストランに入って、一息入れた。  「どうだ?始めてのドライブは?…緊張したろう?」 と、問いかける藤次郎に対して、緊張がまだ解けない玉珠は  「うん」 と、一言返事しただけであった。しかし、  「以外とうまかったぞ」 と、藤次郎が褒めると  「ウン!」  玉珠は途端に緊張が解れて喜んで返事した。  「これからも、ちょくちょくドライブしようか?少しずつ距離を延ばして、また、 走る場所も郊外から市街に近づけて…」  「ホント?」  どうやら、藤次郎の機嫌も治ったみたいだし、と玉珠は喜んだ。  藤次郎と運転を代わり、夕暮れの中、国道を走る車内で玉珠は、にっこり笑って 藤次郎を見た。玉珠の視線を感じて藤次郎は目線を玉珠に投げかけると、玉珠の笑 みに答えるように口元をゆるめた。すると玉珠は、車の窓を全開に開けた。  (…外の空気が吸いたいのかな?) と、藤次郎が思うと、突然車内の空気清浄機が作動を始めた。藤次郎の車の空気清 浄機は、センサーがついていて、空気のよどみや匂いを感知して作動するようにな っている。  (…にゃろ…やりやがったな…) と思いながら、再び目線を玉珠に投げかけると、玉珠は目が笑っていたが、それ以 外は「しまった!」という表情をしていた。  「運転代わったんで、緊張が解けて、気がゆるんだろ?」  「…うん」  玉珠は顔を真っ赤にして、うつむいて返事した。  夜も更けて、ようやく藤次郎のアパートに帰ると、  「おい、顎が痛くないか?」 と言われて、始めて玉珠はその指摘通りに顎が痛くなっているのを感じた。  「うん」  「だろ…だいぶ歯を食いしばって運転していたみたいだからな」  「うん」  「…おれも、免許取り立ての頃は、よく歯を食いしばって運転して、顎が痛くな った覚えがある」  「ほんと?」  「ああ」 …実は、藤次郎も緊張していて、顎が痛かった…  藤次郎は、玉珠を自分のアパートにあげた。  「冷や汗かいたから、シャワー借りるね」  玉珠はそう言うと、さっさとタンスから普段藤次郎の部屋に置いている自分の着 替えを持って風呂場に行った。  この姿を見る度に藤次郎は、「そろそろ、一緒に住もうかなぁ…」と考えて、不 動産広告を見るのだが、玉珠と自分の通勤圏内になかなかいい物件が見つからなか った。  やがて、シャワーを浴びた玉珠と入れ違いにシャワーを浴びて出てきた藤次郎が 見たのは、既に冷蔵庫からビールを出して勝手に飲んでいる玉珠の姿であった。  呆れて見ている藤次郎に対して、  「あは!駄目だったかしら?」 と、玉珠はしれっとして言いのけた。  「送っていくの?、泊まっていくの?」  仕方がないといった表情で聞く藤次郎に対して、  「…泊まってっちゃ、駄目?」  玉珠は、少し照れた風に甘えるような声で言った。  「じゃぁ、俺も飲む」 と、藤次郎は玉珠とテーブルを挟んで向かい合った。  ビールもすすみ、会話も進んでいい調子になった頃。  玉珠は、無言のまま藤次郎の横に適当な距離を置いて正座して座ると、いきなり 藤次郎の首に腕をかけた。藤次郎は、それは玉珠がいつも藤次郎に対して行うヘッ ドロックの体勢だと判っているので抵抗したが、結局いつも通りに玉珠に引き倒さ れてしまった…普段も藤次郎は強く抵抗しなかった。しかし、今日のそれはヘッド ロックではなく膝枕であり、玉珠は自分の膝に乗せた藤次郎の頭を愛おしげに撫で ていた。そして、  「…今日はありがと、藤次郎」 と素直に言うと、そのまま藤次郎の頭を抱えるように上半身を前のめりに倒れ込ん できた。玉珠の胸と膝に挟まれて、気持ちいいやら苦しいやら…でも、苦しさの方 が上回ってきて、なんとかそこから脱出した藤次郎は、玉珠を起こして、  「おい、玉珠。お玉!」 と呼びかけながら、肩を揺すると、  「ふにゃーーん」  玉珠は気が抜けた猫の鳴き声ような返事をした。こうなると、完全に酔っぱらっ ていることを意味する。  「よっぽど、疲れていたんだなぁ…」 と、テーブルの上のビールの空き缶の数を数えながら、藤次郎は自分の肩に玉珠を もたれかけさせて、暫くそのままビールを飲んでいた。玉珠は、そのまま静かに寝 息をたてていた。 藤次郎正秀